The Rise and Fall of Getting Things Done | The New Yorkerの記事を読んでデビッド・アレン氏に宛てた手紙
拝啓 デビッド・アレン殿。
私が初めてGTD(Getting Things Done)と出会ってから、はや10年が経とうとしています。
正直に申し上げますと最初はGTDに挫折しました。
その後、GTDがなんとか使えるようになるまでにはタスク管理アプリ「OmniFocus」との出会いを待つ必要がありました(この話はまた別の機会にしたためたいと思います)。
個人的にGTDがこれだけ広く受け入れられている理由は、人間のワークフローに則っているからだと思っています。
人間のワークフローは、目的を持って行動することです。
ここでいう目的はなにも崇高な目的に限らず日常的に生活を営む(ご飯を食べる・歯を磨くなど)ことまで含めての目的です。
望んでいる結果(=目的)はなにか?
次にとるべき行動はなにか?
これを明らかにしようとするGTDのワークフローは、人間のワークフローに一致していると言えます。
ですので、私もデビッド・アレン殿の私淑し、GTDに深く傾倒して参りました。
今回、筆を執ったのは上記の記事「Getting Things Doneの興亡(もしくは盛衰)」(自動翻訳)を読んだからです。
これまでGTDに取り組んできた、そしてこれからもGTDに取り組んで行く気でいる私にはショッキングなタイトルです。
ぜひ、ご意見を賜りたいところですが、この記事に対しても“mind like water.”(水のような精神)と乗り切るだけなのでしょうか。
申し訳ありません、皮肉ってしまいました。
私なりにGTDの行く末を考えてみました。
まず簡単に記事をまとめてみましたが、自動翻訳からの引用なので直訳調で申し訳ありません。
生産性向上運動は、それを刺激した過負荷文化が悪化し続けたため、繁栄し続けました。
過負荷文化の破壊的な影響を修正する方法はいくつかありますが、そのような解決策は、知識労働者の自律性に対するピータードラッカーの主張の再評価から始める必要があります。
私たちが認識しなければならない生産性は、完全に個人的なものになることは決してありません。それは、私たちが研究、分析、および改善できるシステムに接続されている必要があります。
自律性が誤った引き金となる可能性のある制御不能な過負荷を回避しながら、ドラッカーの本質的な自律性を維持したい。
上記のビジョンは魅力的ですが、個々の行動だけでは実現できません。管理者の介入が必要になります。
これまで個人の生産性に任されてきたところを組織への生産性に対する責任にシフトする必要性がある
果たしてこのまま組織への生産性に対する責任にシフトし、個人の生産性システムであるGTDは衰え滅びゆくものなのでしょうか。
ですが、生産性は完全に個人的なものになることはないと同時にまた完全に組織的なものになることはないと思うのです。
確かに行き過ぎた個人の生産性に組織の生産性の無さを押し付けることはいわゆるブラックと呼ばれる所業に他ならないと考えます。
この組織の生産性と個人の生産性を考えるとき、私には歴史の歩みと個人の歩みとの関係性が重なって見えました。
歴史の歩みは巨大なものに思えますが、細部を見れば一人ひとり個人の歩みの積み重ねに他なりません。
ひいては、組織の生産性を生み出したのも個人の生産性によるところではないでしょうか。
個人の歩みが人間としてのワーク・フローであるならば、歴史の歩みはまるで人として生命のワーク・フロー、さしずめLIFE-WORK FLOWであるかのようです。
そのライフ・ワーク・フローの成り立ちは、人間としてのワーク・フローを土台に築かれています。
その関係は組織の生産性と個人の生産性のように思えます。
ちなみにライフ・ワーク・フローには、ライフ・ワークフローとして、命あっての物種(もしくは、もじった”命あっての仕事だね”でもよさそうです)という”何事(仕事)も命があってこそ初めてできるものだという”ことでもあり、ライフワーク・フローとして一生をかけた、その人の第一の仕事、代表作へのつながりとも読み取ることができるのではないでしょうか。
2021年の幕開けとともに以上のようなライフ・ワーク・フローに思いを馳せつつ、組織の生産性のあり方を問うこと自体もまた個々の行動・個人の生産性に寄るところなのだとGTDの回復を胸に抱き、取り組んでいきたいと思っています。
敬具