かねてよりイドさんの刺激的なタスク管理論に触れることで、我が身のタスク管理を振り返るいい機会とさせていただいております。
かねがねsubstackなるものの存在は知っておりましたが、今回その返信をsubstackで試させてもらおうと思い投稿した次第です。
さて、上記の”タスク実行管理における脱見える化”にありました、お話を整理してみたいと思います。
古典タスク管理を追求していても、タスク実行率が一定以上あがらない
古典タスク管理とは、テイラーから始まったビジネスにおける組織の(タスク/プロジェクト)管理をそのまま個人のタスク管理に流用してきたものである
上記のタスク管理の歴史に基づくと自分を管理者/評価者/計画者と被管理者/実行者に分けてしまう
その後のツイートでタスク管理者(計画者)と被管理者(実行者)を統合した。それができるのは、それぞれで培った力があるためであり、そのための分離が必要だった
判断材料が不足しているため理解がおぼつかない部分があることをご了承願います。
自分を管理者/評価者/計画者と被管理者/実行者に分けてしまうとタスク実行率が一定以上あがらないという不都合が生じる。では、分かれる元になるもの、共有していたものは何だったのでしょうか。
私は“目的”とその目的に対する“思い”だと考えます。
管理と被管理、計画と実行をつなげていた・共に目指すはずだった目的を見失ってしまっているのではないでしょうか。
目的という器だけでは前に進みません。目的という器に入れる“思い”もいっしょである必要があります。
そして、目的を共有していてこそ、計画するのは実行するためになると思うのです。
実行レベルで挽回できないことを補うための計画です。
実行していてうまくいかないときに少し上のレベル(階層と言いかえることもできそうです)で物事を考えます。
戦術がうまくいかないときに戦略を考えるのに似ています。
GTD本にあります
何かがうまくいっていないときには少し上のレベルで物事を考えるべき
“目的”とその目的に対する“思い”が実行と少し上のレベル(階層)の計画との間をまたいで共有できているのかどうか。
共有している部分(=目的とその思い)と分離している部分(=計画と実行)とが同時に存在できているあり方がタスク実行率として現実に働きかける意志に繋がっていくと思います。
変化の激しい現代においては自身のタスク管理もまた変化させていく進化させていく必要があります。
これからもイドさんのタスク管理のますますの発展を願ってやみません。